“2021年生誕170年” 日本第1号の公認女性医師。女性解放運動の先駆者としても多くの功績を残す。
埼玉県では、荻野吟子の不屈の精神を受け継ぎ、男女共同参画の推進に顕著な功績のあった個人や団体、事業所を「さいたま輝き荻野吟子賞」として表彰している。
すでにさまざまな学問を修めていた吟子は1875年・24歳で東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大)に入学、さらに卒業した1879年には医者の道へ進むため、私立医学校好寿院に入学。1882年31歳で同校を卒業します。しかし、医術開業試験(当時行われた医師の開業試験です。)の願書が受理されません…。理由は女性であるから…。
吟子はあきらめず、女性の受験について2年を掛けて粘り強く訴え、ついに1884年受験、1885年に公に認められた第一号の女医となりました。
女性が医術開業試験を受験できないなど、当時女性の地位は大変低いものでした。そんな女性の地位向上を目指して、婦人覚醒運動や婦人参政権運動など社会的活動を行います。廃娼運動の先頭に立ち、女医の必要性を論じ、家庭衛生での女性の役割の重要性を説きました。当時、女性は選挙への参加はもちろんですが、議会の傍聴を行うこともできませんでした。これを撤回する運動を繰り広げた結果、女性の議会傍聴が許されました。
1800年に塙保己一が復元させた「令義解(りょうのぎげ)」。これは757年に施行された日本古代国家の基本的な法律である『養老令』の公的解釈を示した書物です。この中に、すでに「女医(にょい)」の二文字や「女医を取り立てて郡衙に配置させる」といった文言が記されており、8世紀前半には、女医を養成する「女医博士(にょいはかせ)」という職種も設けられていたことが伝えられています。
この記述が、「日本にも女子の医師がいた」という吟子の主張の根拠となり、医術開業試験への参加を訴えたと言われています。